いつか、授業の中先生に、「嫌いなやつっている?」って突然聞かれて、すごく悩んだ末に「いません」と答えました。
この「いません」という言葉。事実かどうかといわれれば事実ではないと思います。授業中も「え〜〜〜…」って非常に半笑いになりつつ「いません」って言ったので、本当かどうかは察せられたと思います。でもなんで「いません」って答えたんだろうと自分でよくよく考えてみました。
この「いません」って言葉には、「嫌いな人がいると言ってしまったら負けだ」という気持ちがありました。何に負けるかというと、エゴイスティックな自分にです。
大抵「嫌いな人」って自分が許容出来ていない、理解出来ていない、価値観等が違うってことだと思います。それは、相手に欠点があるというよりは、自分自身の未熟さがある可能性も、十分あると思います。
そういうとき、あとあと誤解であったり、理解が深まったときに「嫌いな人」が「好きな人」に変わることは珍しくありません。もしかしたらいい友人が増えるかもしれませんし、そうはならなかったとしても、自分の中に、世界にはいろいろな人がいる、という多様性の幅が広がるかもしれません。
しかし、その曖昧な状態な時に、「嫌いな人」だと決めてしまったらどうでしょう。また、それを人に公言してしまったら…。
大げさな話ですが、「嫌いな人」がいる、と認めてしまうのは、自分だけの一つの価値観のみが正しいという非常にエゴイスティックな感情を肯定することにつながると思います。
そもそも、「嫌い」という言葉もあまり使いたくなくて、「苦手」だということにしています。その方が、思考が硬直化せずにすむ気がするのです。
仮にそういう人がいたとしても、距離を持って接すれば、そんなに嫌うこともないのではと…。みんなで吹聴しあってのけ者にしてしまうことも世の中あるようですが、それはもったいないと思うのです。本当に不満があるならしっかり伝えて、伝わらなかったら程よく距離を置けばいいと思います。
じゃないと戦争するしかないんです。
私は多様性を知る、認めることがなにより大切だと思っています。
2008年10月29日
嫌いな人はいるかという質問
ラベル: 雑感
2 コメント:
とても考えさせられました。
私は相手を嫌う理由から自分自身が大切にしているものが透けて見えると思っています。だから、嫌いは好きと同じだけ大切な感情だと感じます。すべての人を受け入れられずとも良いのではないか、むしろ嫌いを曖昧にすることで好きも曖昧になってしまうのではないか、と。
ですが、「嫌い」が思考を硬直化させると言われれば確かにその通りだと感じます。
誰かが何か・誰かを嫌っているとき、そこから相手の「好き」や「大切」を見つけ出して引き出せたなら、相手と一緒に柔らかな思考に帰って来られるのでは? と、そんな気がしました。
ではでは。乱文失礼しました。
私の未熟な文章を読んで頂いて、ありがとうございます!嬉しいです^^
私も、F.R.Jさんの仰る通りだと思います^^
自分が大切にしていること、好きな想いが強いほどに、その逆の気持ちもはっきりしてくると思います。
私の母は非常にはっきりした人で、好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、ときっぱりしています。
それは、彼女自身が何者であるかということもよく分かり、見ていて清々しく感じるときもあります。一個人として強い人です。
ただ、時々行き過ぎて、平和を望んでいるはずが、戦うしかないじゃないか、という論になっています。母の場合は、極端過ぎて笑い話ですが…(笑)
母のような強さもあると思いますが、もっとしなやかな強さはないかな、と模索しています。まだまだ未熟で情けなくなるときもありますが…。
この質問をされた当時、苦手に感じていた人とも打ち解けることが出来ました。改めて「嫌い」にしなくてよかったな…と思いました。
F.R.Jさんのコメントを頂いて、肩の力みがとれました。
本当に、相手の方と一緒に、柔らかな思考に帰ってこれると、本当に幸せなことだろうと感じます。
ありがとうございました^^
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