今日、近所の小学校の見学に行ってきました。小学校には、近所で知り合った子どもたちも何人かいるので楽しみに行ってきました。
見学3クラス目にして、知っているお友達を発見。その子は、道端であっても元気よく挨拶してくれるし、子どもとも遊んでくれる子。今日も、私に気がついて、「あっ」と手をふってくれました。私も手をふりかえして、そのまま授業を見学。すると、知り合いのお母さんも来て、少しお話を聞いていると、何人か落ち着きのない子がいるとのこと。私に手をふってくれた子も、他の子に比べたら元気がいいので、あの子もかな、と軽い気持ちで話をふってみると、「あの子は病気らしい」と小声で教えてくれました。
病気?なんの?というのが最初の感想。普段からよく話すし、一緒に遊ぶけれど、特別病気らしい所なんてなかったけれど・・・。そう思ってしばらく授業を見ていると、なるほど、よく立ち上がったり、しゃべったりしている。多動性障害、という話を耳にしたことがあるけれど、そんな感じなのかな、と。そうか、自由にしていい場所で見ると元気のいい子どもでも、自由にしちゃいけない場所で見るとおかしいって事になるんだと・・・。
でも、仮に病気は病気でもそんなネガティブなニュアンスで言わなくてもいいのにと思ってしまった。その子が一番いい挨拶が出来るのに。もう夏には転校するんだって、って安心したように言っているのを聞いて、ますます残念な気持ちになりました。多様性について知る機会も、考える機会も、なくなります。
ただ、今の小学校には、その子を育てられるだけのキャパがないことも確かで、もしその子がのびのびと楽しめる学校があるなら、転校した方がその子にとっていいのかな。現状をよく把握していないから何もはっきり言えないけれど、その子が元気な笑顔のまま、育ってくれればそれだけでいいなと思いました。
帰り道、一緒に見学に来ていたお母さんにその子の事を話したら、でもそういう子って将来花開いたりするんだよね〜と言っていました。タレントや俳優にも結構いるしね、と。そのお母さんの、理解のある言葉を聞きながら、子どもたちが無理な型にはめられなくていい社会がくるといいな、と思いました。
授業中動き回る子も、女の子を好きになる女の子も、体だけ男の子だった女の子も、頭の中が半分男の子な女の子も、ダウン症やら、知的障害やら、チック症やら、なんやらかんやら、いますよ。だって、人間は本当に千差万別ですもん。なのに、大人になるまで、出会えないのは、そういう人たちがそのまま共存できないようにしちゃっているからだと思います。
私の知っているその人たちは、誰に迷惑をかける分けでも、危害を与える分けでもない。ただ、"普通”の必たちと同じように感じて、”普通”に暮らしている。
より、彼らの生活がいいものになるなら、何らかのアプローチは必要でしょうが、健常者(?)の利便性のために追いやられているのであれば、違和感を感じます。
ここに書いたことは、まったく専門的な見解を含めず、個人の雑感として書いていますが、あまりにも多様なことを理解しようとしなさすぎ、に感じたので書きました。
2 コメント:
こんにちは。
お久しぶりです。
最近は区別化が計られたりと、とても多くの機会を失う事が多いですが、僕の小学校や中学校では「なかよし」学級というクラスがあって、彼らと給食を食べたり、体育をしたりする事もありました。
彼らと過ごした時間の記憶を大切にしたいです。
今になって考えてみると、今後ないことだと残念な気持ちになります。
こんにちは!
子どものころは、大人の都合で出会う機会をコントロールされますが、むしろこれからの方が自分の意識次第でいくらでも会えますよ^^
おそらく、今通っている学校にも、何人もいるはずです。障害といわれている人は端に追いやられていますが、性同一障害、同性愛者、などなど、普通にいます。
ただ彼らも、うまく隠して生きているから、出会っていても知ることが出来るかは別ですが・・・。
身近に、よくいるものだと感じながら生活すると、相手も話してくれるときもあります。
東京にいるので、いろいろな人に出会う機会がありますから、楽しんでください^^
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